第11話「過去を一日も忘れることができない老人の出した答え」

憶を一切忘れられない病気のせい
で、亡くなった妻の苦い思い出が生々

く蘇る。笑顔を強いてしまったことを

悔して、リビングの写真をしまった矢先…
   

 

ヘム。 砂吹たちの大家、79歳、イギリス在住    

 

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最初に会った時から、不思議な青年だということは分かっていた。  

彼の英語はめちゃくちゃだが、何故か伝わってくる。  

彼の言わんとすること。そして、悪い奴ではなさそうだ、ということ。  

しかしながら、やることはいちいちクレイジーだ。

 

 

 

 

彼は次の日、両手に大きな白のペンキ缶を2つ持って現れた。        

「じいさん、これ塗るぞ」   彼はリビングの壁を指差した。  

「何をする気だ、いったい」  

聞こえてないのか、理解できてないのか、はたまた聞こえないフリなのか。

 

 

 

 

彼は机や棚などの家具も一人で庭に運び出し、シートをひいて、壁を塗り始めた。        

彼の仕事は塗装屋なのか。  

それにしては、手際が良いわけでもない。  

刷毛の後も残っている。  

 

 

 

 

少し心配ではあったが、言ったところでやめそうもない。

私はしばし見守ることにした。        

「いいか、触るなよ。ドンタッチミー。ドンタッチイット? まあ、触るな」  

壁に触るなと言っているのだろう。

 

確かに、ペンキ塗りたての場所にはDon’t touch meとよく張り紙がしてある。

壁の気持ちになって表現しているのは、日本人にとっては不思議なことなのかもしれない。  

彼は夜遅くまで作業を続け、手や顔をペンキだらけにして帰って行った。  

リビングを見回してみる。

 

 

 

 

床や天井はまったく汚れておらず、あれだけムラがあった壁も、きれいに塗り終えられていた。  

器用なのか。不思議な少年だ。        

次の日の夜、彼はまたやってきた。  

ペンキが乾いているのを確認する。  

 

 

 

 

てっきり私は、写真を壁にかけていた為にできた日焼けの後を、消してくれたのだと思っていた。  

しかし彼はあろうことか、私が飾っていた写真を引っぱり出して来て、壁や棚や窓際、至るところに貼り始めた。        

私はさすがに声をかけた。  

「おいおい、話を聞いていなかったのか。私は辛いから写真を取り外したんだ。妻の笑顔は好きだ。だがそれを見る度に、最後の苦しい思い出が蘇ってしまう。だから……」  

 

 

 

 

アイノーアイノーと言って、彼は私の背中を押して、むりやり寝室に連れていった。   ここで待っていろ、ということなのだろう。        

悪い人間ではないと思っていた。   少々手荒で、失礼な所はあるが、根は良い子なのだと。  

歴史を知りたいと言って家に来るのも、話し相手になっていてくれた事は知っている。  

だが、これはいくらなんでも、ひどいではないか。嫌がるのを分かっていて、自分の意見を通すのは、独善的だ。        

 

 

 

 

寝室の扉がノックされた。  

彼に連れられ、リビングに戻る。   部屋を見て驚いた。  

呆れた。どこから引っぱり出して来たのか、部屋中が写真で埋め尽くされている。

きっと、家にある写真の、ほとんど全てがここにある。        

 

 

 

 

そして、一つのことに気が付いた。  

目のつく場所に、病室で笑う妻の写真があった。  

それも、わざわざ大きく引き延ばして。これは明らかに嫌がらせだ。        

頭に血がのぼり、声を上げようとした。抗議の声だ。  

 

 

 

しかし次の瞬間、彼はこう言った。  

「いくつ、ある?」        

いったい何のことか、分からなかった。  

「写真がか? 知らんよ、たくさんだ」  

 

 

 

 

「そうだ、たくさんだ。その中で、悲しい思い出はいくつある」  

彼の質問の意味が分からなかった。私は首を傾げた。        

「あんたは、奥さんの顔を見ると、悲しい思い出が蘇るんだろ。でも、いくつあるよ。そんなにあるか? ぱっと見、これだけだ。少ないから、引き延ばしておいた。   全体のどれだけが、悲しい思い出かなんだ。そんな事は知らんが、奥さんはこれだけ写真の中で笑ってる。   悲しい思い出の写真を貼らないから分からないんだよ。飾るなら全部飾れ。毎日全部思い出せ。記憶の川とやらに、石をどんどん放り込んで、全部全部思い出せ。都合の悪い思い出ばかり、思い出すな」        

 

 

 

 

彼は吐き捨てるように「まったく、自分勝手なじいさんだ」と言った。  

思わず笑った。  

私が自分勝手だと思った人間から見たら、私の方が自分勝手だったようだ。  

悲しい思い出だけに目がいっていた、か。

なるほど、笑っている妻の写真が圧倒的だ。        

 

 

 

 

−−−−−

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作家志望、24歳、ロンドン2ヶ月目      

 

家に帰ってきた砂吹は、この2日間に起きたことを目を輝かせて話した。  

まるで、やんちゃな息子が冒険でもしてきたかのようだった。  

さしづめわたしは、はいはい、と聞く母親だ。  

残念ながらうちの息子は純粋な少年ではない。性格のひん曲がったマセガキだけれど。        

 

 

 

 

「というわけで、あのじいさんは涙を流しておれに感謝していたぞ。一生忘れないと、感動していた。いいか、ありのままブログに書くんだぞ。脚色はいらん、すでに完成された武勇伝だ」  

「忘れられないのは、もともとでしょ。砂吹のせいじゃない」  

「おかげと言え、おかげと」  

「そもそも、写真をそんなに張るならペンキを塗る意味なかったじゃない」  

 

 

 

 

「バカかおまえは。キャンパスは白に限る」        

わたしは、白目を剥くようにして呆れてみせる。  

「その言いたいだけのやつ、やめなよ。本当ムダ。ペンキもお金も時間も労力もぜーんぶムダ」  

「ムダはお互いさまだろ。この数日何をやってた。ぼうっとしてるなら短編のひとつも書け」            

 

 

 

 

ロンドンに来て、何もすることがなかったわたしたち。  

とりあえず、大家ヘムの笑顔を見るといって、家に通い続けた砂吹。  

短編をやっとひとつ書き上げたわたし。  

 

 

 

 

ヘムとちがって、日付や曜日は忘れてしまうかもしれないけれど。

それでもきっと、忘れられない良いスタートをきったことだろう。  

次回はわたしのショートストーリー。

プロットもたくさん作らなくちゃ。

 

 
 
 
 
 
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