1億手に入ったところで、以前と何ら変
わりない。世の中の社長がすごいのは、
金を持っているからじゃない。おれは中
身が伴う前に、大金を手にしてしまった。
宝くじが当たった無職、20歳、イギリス3ヶ月目
「おい木よ。 そんな姿になってまで立っているおまえの存在意義を400字以内で述べよ」
「こんなの、普通だよ」 その返事は、周りをよく見ろとでも言うようだ。
たしかにこの辺一帯の木は、海からの異常なまでの強風を受けて、みな同じ方角に向かって、体を痛ましげにもたれている。
「それは、普通じゃない。少なくともおれが見てきた多くの木たちは、空に向かっていた」
「普通さ。君の国では、上司が帰らないと、たとえ仕事がなくても帰れないんだろ。それと同じさ」
外国から見たら、それは異常なのか。ならば普通だ。仕方ない。
途端にその木が、右向け右の、やつれたサラリーマンに見えてくるから、不憫に思った。
ブライトン、セブンシスターズの木だ。写真を撮ったのは広末くん。
ある日、気まぐれに買った宝くじが当たった。
額は1億円。
これを聞いてどう思うだろうか。
感想は、いたって普通だ。
どんなに欲しいものも、手に入れたらそれが現実だ。
サンタの正体が知りたくて仕方なかったように、手に入れたらなくす夢もある。
手に入れても好きなものが、本当に好きなものだとも聞いた事もある。
手に入れたら、飽きることなくそれを愛し、守り続けなくてはいけない。
じゃあおれが欲しいものとは、いったい何だったんだ。
1億あれば、たいがいの物は買えるし、金を増やすための資金としても十分だ。
だが、偶然手に入れた金で作った会社が、うまくいっても、潰れても、さほど面白くない。
将来、情熱大陸の取材を受けた時、「ずいぶんお若い時に起業されたようですが、始めたきっかけは何だったんですか」の答えが、「宝くじが当たったんで、なんとなく」では、イマイチだ。イマイチ過ぎる。
おれは若い。
若いが故に、尖っている自分のことを、よく分かっている。
よく分かっていると言い張るところに、若いと指をさされることも少なくない。
だが誰が何と言おうと、おれはこの1億が気に食わない。どうにかして、早く使い切らなくては。
寄付したら、そりゃあ人のためになるだろう。
だが、そんなの、使ったと言えるだろうか。
かといって浪費はしたくない。
そこで思いついたのが、見ず知らずの奴を連れて海外に行く、というものだった。
友達には知られたくなかった。
そんなことで壊れる友情ではないと信じたいが、金は人を見る目を変える。
おれは、初めて会ってピンと来た奴を適当に誘うことにした。
場所はどこでもよかったが、アメリカは行ったことがあった。それ以外となると、ヨーロッパ。イギリスなんて、無難だろうか。ロンドンに決めた理由はそれだけだった。
三井は宝くじ当選を疑っているようだが、別にそんなことはどうでもいい。
あいつは小説家という夢のために来ているし、ちゃんと努力もしている。
カメラマン広末くん、おれは奴をサイコパスだと思っている。
ミステリアスで、メンバーとしてなんか面白そうだったから入れた。
部屋はあと一つある。もう一人は、そうだな、運転免許がある奴がいい。ロンドンの交通費は高い。
日々行動だ、と三井には口うるさく言ってきたわけだが、おれもロンドンに来て、ずっとぼんやりしていたわけじゃない。
まずはネットワークを作るために、いろいろな場所に顔を出した。
老若男女様々な人と話もしたし、やりたいことの情報収集もした。
おれは英語が話せない。
三井のような、バカ正直な好奇心も、さほどない。
だからそれは、おれにとって最初のハードルだった。
ある日の夜、家にいると三井から電話がかかってきた。
「砂吹、ごめん。お財布、落としちゃったみたい。帰れなくなっちゃった」
「何やってんだよ、今何時だと思ってんだよ」
「11時、48分」
声を荒げたが、あいつのことだ、ずいぶん長い間探していたのだろう。
まだ電車もある時間だったが、おれはUBERを呼んだ。格安タクシーのことだ。
「今行くから、安全なところにいろ」
UBERが家の前に到着し、ドライバーのおっさんに行き先を伝える。
片道£16-22ぐらいと目安が出てきた。
おれは自他ともに認める倹約家だ。
決してケチではない。
それでも、こういう出費は厭わない。
1億あるから? たしかにそうかもしれない。
バイトの日々で、家賃を払うのもギリギリの生活をしていたら、電車で迎えに行くだろう。
一人じゃ絶対に使わないUBER。
夜の街が窓に流れるのを見ながら、ふと考える。
ロンドンの交通費は高い(2回目)
故に、腰が重くなる時がある。
急なメシの誘い。行きたいけれど、ごはん£15、その後パブでビール1杯で£5、往復の電車で£5,8、これだけで3,700円。交通費だけで900円近い。
会社の社長や経営者たちが時々羨ましくなるのは、彼らが金持ちだからじゃない。
では、彼らは何を持っているのか。
面倒見が異常によくて、一人一人をないがしろにしない優しさ、その頼もしさは、人柄もさることながら、彼らはいつ、どこにでも行ける定期券のような物を持っているような気がする。
夜、誰かが泣いていれば、飛んで行って話を聞いてあげることができる。
腹を空かせた芸人の卵に飯を食わせる代わりに、彼らの面白い話を聞いて、自らの糧にすることができる。
本当に急いでいる時には、どんな手段でも使える。
人を大事にするには、多少の金がいる。
部下だけの話じゃない。家族もそうだ。愛だけじゃ生きていけない世の中だ。
駅に到着した。帰り道も頼むからここで待っていてくれとドライバーに伝えて、三井を探しに行く。
改札で、見慣れたボブスタイルをすぐに見つけた。携帯もいじらずに肩を落として佇む姿は、いつもより小柄に見えた。
おれに気が付いた時のその困ったような笑顔には、疲れの色がありありと見てとれた。
いつも阿呆みたいに笑っているから、そんな表情を見たことがなかったし、普段生意気な口ばかりきくくせに、この時ばかりありがとうなんて言うもんだから、おれは文句のひとつも言えずに、行くぞ、と言った。
財布の中は、現金とトップアップ式のオイスターカード、それとクレジットカードだった。
帰り道の車の中で、クレジットカードは止めさせた。まだ使われてはいなかったようだ。
失くした経緯などを訊くべきだったのかもしれないが、なんだかどうでもよくなっていた。
おれは窓の外を眺めながら、まったく関係のないことを訊ねた。
「なあ、なんで海外にいると、昔のことを無駄に思い出すんだろうな」
車内は暗いので表情分からないが、三井は答える。
「昔のことって?」
「たとえばこの大通りの、白熱電灯みたいなオレンジの街灯を見てると、小学生の頃を思い出す。夜、親父の車に乗って、後部座席から、等間隔にならんだ街灯をずっと見てた。長い間見つめてるんだけど、それはずっとずっと終わらなくて、道の先を見ようとしても、街灯の光同士が重なって線に見えて、際限がないように思える。同じ速さで流れるそのオレンジの灯を見ていると、時の流れを視認しているような、不思議な感覚になった。どこかで必ず終わるのだろうから、今日こそはその終わりをと見届けてやろうと思うんだけど、いつも眠っちまう」
「それはちょっと分かんないけど、まあ昔のことは思い出すかも」
「少しは同調しろ」
たぶんだけど、と言って三井は続けた。
「日本にいる時とは、時間の流れがちがうんだと思う。私、よく思うの。日本にいた頃、カナダに2年行くっていう友達がいたのね。へえそんなに会えなくなるんだ、寂しくなるなあと思っていたのに、その子があっという間に帰ってきたの。ちゃんと2年間、行っていたはずなのに」
「ほお」 分かる気がする。
「きっと、わたしはいつものルーティンを2年続けてただけだから、それこそ飛ぶように時間が過ぎ去ったのかもしれないけど。その子はきっと濃密な2年を過ごして、色々な経験をしてきたんだと思う。今のわたし達みたいに、時々昔のことを思い出しながら。きっと、日本にいる時には忘れているけど、過去を思い出すきっかけみたいのが、外国にはあるのかもね」
そう言って、人差し指で何かをそっと押すような素振りをした。思い出スイッチみたいなものが、そこにあるような。
おれは、思った。
せっかく海外にいるのに、思い出に浸っていて、どうすんだ。
どちらかと言えば今は、人生の中で思い出を作らなきゃいけない時間なんだ。 思い出すことなんて、くそ暇な老後にいくらでもできる。
「三井、旅行に行くぞ。広末くんと3人で。明後日出発だ。財布を失くした罰だ。計画を立てろ」
急に何言ってんの? 明後日って、いくらなんでも急過ぎ!
などと文句を言ってくると思ったが、「わかった」と三井は言った。
そして寝言のように「どこに行こうかね」と言いながら、そのまま眠ってしまった。
自分の着ていたカーディガンをかけてやった。
こんなのは柄じゃないから、家に到着する寸前で回収しなければ。
そんなことを思いながら、窓の外に目を戻した。