緊急避難時にも、ビールグラスを持っ
て逃げるイギリス人男性がニュースで話
題になった。それほどロンドンのビール
は高い。オススメ良心的価格の英国pub
作家志望、24歳、ロンドン2ヶ月目
普通のブログは書くなと、砂吹(すなふき)が常日頃言っている。
砂吹とは、私がロンドンで執筆をするための、実質上のスポンサーだ。
宝くじが1億当たったと言っているが、基本的にケチで、当たったかどうかも疑わしい。
自意識ばかりが高く、私たちは一応偽名で、イーストロンドンで生活をしている。
「そもそも砂吹の言う、普通のブログって、どういうのよ」
「ごく普通のブログだ。美味しいと評判のレストランに行きました。お洒落な雑貨屋さんを見つけました。これが並んでまで食べる価値のあるパンケーキです。リアルが充実しているアピール。いいね欲しさに買うだけ買って、写真を撮ったらハイおしまい。これからは話題のパンケーキ、食べるなら1500円、写真撮影のみ500円、という商売業態が流行するだろう」
「そんなまさか」
否定しつつも、もしかしたら、と思ってしまう。
この砂吹という男、基本的には愚痴の塊なのだが、気まぐれに核心をつく。
「分かってるよ、わたしたちは観光をしに来たわけじゃない。でもさ、日本に住んでたって、週末くらい外食に行くでしょ」
「ならば探せ、安くてうまい店を。おれはpubというのに行ってみたい」
自分だって遊びたいんじゃん、という言葉を飲み込む。
pubは、ビールを片手に人々が会話を楽しむ、イギリス発祥の酒場のことだ。
日本の居酒屋と何がちがうかというと、たぶん色々あるのだが、そのひとつは、手軽さな気がする。
店に入っても店員に席を案内されることもなく、自由に座る。注文はカウンターに行ってキャッシュオンで支払い、その場で飲み物を受け取る。
郊外の小さなpubは食事を置いていないことも多い。みんな食事を済ませてから飲みに来るのだ。
昔の簡易宿泊所がpubの起源で、町の中の便利な社交場の歴史が、今も引き継がれている。
ロンドンの中心街には、食事をできるpubも多い。
今回は砂吹の条件は、良心的価格かつ、pubの雰囲気が味わえる場所。
pubでは通常、ビール1杯 £5〜6(700円〜840円 £1=140円)と、日本と比べて割高だ。
ビールの量は
英国 1パイント 568ml 840円
日本 中ジョッキ 435ml 450円
日本 大ジョッキ 700ml 750円
日本は店によってジョッキの量や価格はまちまちだが、平均で比べると、高いのが分かる。
そんな中、美味しいハンバーガーとポテト、好きなビール1杯がセットで£7.65でいただけるお店が、Wetherspoons!!
ちなみにイギリスではフライドポテトのことをチップスと呼ぶみたい。
いくつも店舗がある中でここを選んだのは、店名にShakespeareと入っていたという、ただそれだけのこと。
そしてこれが、Classic beef humberger フライドポテト、ビールも付いて、£7.65 アボカド70pをオプションで。
食べ物を注文する時は、机の上に刻まれているテーブルナンバーを訊かれるで、最初に覚えておく。
飲み物はロンドンエールというのにしてみた。
さっぱりしていているいて、独特な味。
そもそもビールを飲み慣れていないせいもあるかもしれない。
砂吹は酒に弱いのか、1杯目を飲み終える頃にはすでにほろ酔いのように見えた。
私は普段飲まないが、量は結構飲める。
これはチャンスだ。
もう少し飲ませて、1億の真相を問いただそう。
悪く聞こえるかもしれないけど、もちろん騙しとろうと思ってるわけじゃない。
1億円が本当にあるのか、ないのか。
なければないでいい。
ただ、本当のことが知りたいだけ。
私は虚ろな目の砂吹に、次は何が飲みたいか訊ねた。
ハンバーガーと1杯目は砂吹が支払ってくれた。
2杯目は私が出す。
Buying a roundと言って、毎回個別に会計するのではなく、一人の代表者が全員分の飲み物を買って、代表者を順番に回していく。それがこちらのルールらしい。たしかに、レジも混まないで済む。
砂吹は「ギネス」とぶっきらぼうに言った。
真っ黒なビールを持っていく。
実に黒い。
こんなの、本当に美味しいのだろうか。
「砂吹はさ、これからどうしていくつもりなの。その、1億円で」
周りは英語が飛び交っている。日本にいた時のように「しっ! 声がでかいぞ、誰が聞いているか分からない」とは、もう言ってこない。
「1億は、ない」
やはり、嘘だったか。 しかし、どこかすっきりした気分になる。 宝くじなど、そうそう当たるはずがない。
「あと、9,947万だ。ロンドンに来るのに、結構使ったからな」
束の間の安堵から、再び緊張感をともなう。
一応、周りに日本人がいないか窺う。
行きの航空券と家賃、デポジット。
それでほぼ53万だ。
本当に宝くじに当たったのだろうか。
計算をしていたのを勘付かれたのか、砂吹は「あとペンキも買った」と独り言のように言った。
ヘムの家の壁を塗った、大きな2缶の白ペンキ。しかし、1億持ってる男からしたら、大した出費じゃないだろう。
「おまえは、1億という金を、どう考える」
「どうって、そりゃ何でもできるでしょ。世界一周とか、起業するとか、豪遊するとか、資産の、運用とか?」
資産運用と言ってみたところで、実際に何ができるのかは知らない。
子どもの九九のようなもの。知ってはいるけど知らない言葉だ。
「でも、一生は生きていけないよね」
「なぜそう思うんだ」
「だって、サラリーマンが生涯に稼ぐ平均は2億円とか言われてるじゃない」
「それが、そもそも間違っているんだ」
砂吹は口についた柔らかそうな泡を、手の甲で強引に拭った。
「1億でも、実は十分生きていける。誰もが計算違いをしているのは、働くためにも日々、かなりの金を使っているということだ」
「どういうこと?」
「職業によっては、ちゃんとした服装をしなければならない。交際費も、しっかりした地位にいる人ほど、バカにならない。だが、ひっそりと暮らしていけば、30歳でリタイアしても、1億あれば暮らしていける」
つまり、一生働かなくて済む額を手に入れてしまったんだと、砂吹はつまらそうに言った。
「でも、それなら、わざわざロンドンに来なくてもよかったじゃない。それこそ、田舎にでも引っ越して、ひっそり暮らせば」
「別におれは、働きたくないわけじゃない」
じゃあいったい何なんだ、と言いたくなってくる。
「おまえはおれが本当に1億持っているなら、ケチな人間だと思ってるだろう」
思っている。
「だがおれは1億持っていたところで、前の自分と何ら変わりのない、ダメな人間だということを分かっている」
これは驚いた。
あれだけの自信家が、自分のことをダメだというとは。
「だから、金を使うのは、今じゃない。 おれが何をするつもりなのかは、あと2人加わった時に、分かる。 そのうちの1人は、すでにイギリスに入国している」
砂吹は、ゆっくりとそれだけ言うと、突っ伏して眠り始めた。
1億本当にあるということでいいのだろうか。
イギリスに来た以上、すでに嘘をつく必要はない気がする。
金がないと分かれば、わたしが早々に日本に引き返すとでも思っているのだろうか。
まあいい。
今日の意外な収穫は、砂吹は飲むと弱気になるということだ。
自信たっぷりで鬱陶しい時には、お酒を飲ませることにしよう。
次回、第10話。
とうとうイギリスにも夏がきました。
わたしたちは、ブライトンという海沿いの町へ。