第42話「お前みたいな奴がいるから! とワーホリ先輩が殴られた時の話」

 

たった千人の枠。1回で当選する人も
いれば何度も落ちる人もいる。頑張って
いる人もいれば、そうじゃない人もいる。
変な誤解から、先輩が殴られた時の話。

 

 

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ヘアメイク、28歳、イギリス7ヶ月目

 

 

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先輩が大変身を遂げたお祝いに、みんなでパブで飲んでいる時に、事件は起きた。

 

「ワーホリ先輩って、ワーホリビザで来たわけじゃないの?」

わたしは砂吹を問いつめる。

 

「いいかいミムラ。そもそも、イギリスにワーホリはない。YMSビザといってだな」

 

「知ってるよ、そんなこと」砂吹の言葉を遮る。

 

 

 

厳密に言うと、イギリスにおけるワーホリにあたるビザは「Youth Mobility Scheme」という名前だ。ワーホリよりも自由度が高いビザになる。期間も2年と、ワーホリの2倍だ。だがイギリスにいる人は、分かりやすいという理由から、ワーホリという言葉を今も使っている。

 

「ワーホリ先輩、2年間何もせずに部屋に引きこもってたって、言ったじゃない」

 

「聞き間違いはよくある、って言ったろ」砂吹はなぜかしたり顔だ。

 

「彼は岩堀先輩だ」

 

 

 

 

ィワーホリ先輩……いや、無理があるでしょ。悪意しかない。

 

「彼はイギリス人と日本人のハーフだよ。この2年間は引きこもって何もしてない。嘘はついてないだろ。だが、彼はすでに日本で会社を立ち上げて……」

 

そこまで砂吹が話したところで、ガタンと大きな音がした。椅子が倒れたのだ。驚いて音が鳴った方を見ると、先輩が見知らぬ男に胸ぐらを掴まれている。

 

「おまえみたいな奴がいるからな」目の虚ろな男が、先輩に向かって拳を振り上げているところだった。

 

「おまえみたいな奴がいるから、俺たちのチャンスが潰されるんだ」

 

 

 

 

次の瞬間、先輩は思いきり殴られてしまう。わたしたちは思わず身を固くする。

 

広末さんがすぐに止めに入り、男を羽交い締めにした。

 

「ごめんなさい! 彼ひどく酔っていて」彼の連れと思われる女性が飛んでくる。

 

「お前のビザを俺によこせ。何が引きこもりだ、ふざけやがって。俺の方が何倍も有効に使える。どいつもこいつも。旅行がしたいんなら観光ビザでいいだろうが。ふざけやがって」

 

 

 

 

呂律も怪しいし、主張も支離滅裂だった。完全に八つ当たりだけど、それでも、言いたいことはなんとなく分かった。

 

直後、憑き物が落ちたように冷静になり、呪文に似た謝罪のような言葉を述べたと思ったら、テーブルに突っ伏して寝てしまった。

 

一緒にいた女の子はひたすら謝っていた。先輩の頬は腫れ始めたが、驚きの方が上で、まだ痛みはないらしい。

 

連れの彼女によると、男は今年の春で、7回目の抽選に落ちてしまったらしい。彼には夢があるらしく、観光ビザを6ヶ月、その後は学生ビザで滞在して、今も頑張っているらしい。

 

 

 

 

イギリスのYMSは、毎年抽選で1000名と枠が決まっている。

 

その倍率は10倍、15倍とも噂されるため、中には行く気がなくとも一応といって応募する者も少なくない。

 

当選しても行かない人、行ってもすぐ帰る人、ただ旅行が目的な人。それらの人が、彼は気に入らないらしい。

 

逆恨みだ、と思った。

だけど気持ちは分からないでもない。

 

 

 

 

「いつもはこんな人じゃないんです。今日は飲み過ぎてしまったみたいで」

 

先輩は、氷の袋をもらって頬に当てている。

 

「せっかくイケメンになったのにね」三井は励まそうと思ってそう言ったのだろうが、彼はそれどころではない。

 

「先輩の名誉のために言っておくが」と砂吹は前置きをした。

 

 

 

 

「先輩は日本でネット販売の会社を立ち上げて、これが今、アホほど売れている。それで、社長の座を他に譲ってイギリスに来たんだ」

 

「会社って何を売ってるの?」

 

先輩は氷の袋を当てたまま、もごもごと話す。「アンティーク。最初は買い付けも兼ねて来たけど、気に入って住み着いちゃった」

 

「なんで嘘なんて付いたのよ」砂吹をにらむ。

 

 

 

 

「言いがかりはやめたまえ。おれはィワーホリ先輩と毎回言っていたし、2年などと聞いて勘違いしたのは君らだ」

 

「確信犯じゃない」

 

「その通りだ。実のところ、ワーホリで来ているだらしない男を見たら、君らがどんな態度を取るか、興味があった」砂吹は悪気もなく認めた。

 

「あなたもあなたよ。社長なら社長らしく、良い服着て、ちゃんとしなさいよ」

 

 

 

 

三井が指をさして、なぜか矛先が先輩に向いた。痛いところを突かれたのか、本当に頬が痛いのかは分からないが、まあとにかく痛そうだ。

 

「ほら、マークザッカーバーグも、毎日同じシャツを着るというだろ。服を選ぶところに頭を使うなら、他の決定に頭を使いたいんだよ、先輩も」砂吹が謎のフォローをする。

 

「家でYoutube見てただけじゃない」

 

言ってから、なんだか先輩の立場が不憫に思えてくる。

 

 

 

 

殴った男は最後まで起きることはなかった。

 

女の子は、万が一治療費が必要になったらと、連絡先のメモをくれた。

 

彼らはタクシーで帰ると言うので、わたしたちは先にパブを後にした。

 

わたしは飲みきれなかった瓶ビールを片手に、帰り道、あの男の境遇を想像した。

 

 

 

 

どんな夢があるのかは知らない。

 

でも、ビザの抽選に当たらないから、ありとあらゆる手を使って、

お金をかけて、時間をかけて、イギリスで頑張っているのだろう。

 

あんまり寝てないかもしれない。休みなんて、ないのかもしれない。

 

彼から見れば、遊びに来ているような私たちは、ぬるま湯に浸かっているように見えるのかもしれない。

 

 

 

 

日本でワーホリが悪く言われる時。

 

それは、確固たる目標がなく、だらだらとバイトと旅行を繰り返して、楽しかったで終わる人。

 

帰国してから後悔して、職がないと、途方に暮れる人がいるからだろう。

 

 

 

 

別に、旅行やバイトが悪いわけじゃない。

 

ただわたしは今日の出来事の中で、今何をすべきかをもっと意識しなくちゃ、と思った。毎日をもっと必死に生きようと思った。

 

食事の前に、なんのために「いただきます」と言っているのか忘れていたような、そんな気分だった。

 

マナーだからじゃない。命を頂いていることに対しての、感謝の言葉なのだ。

 

 

 

 

いただいた、お肉やお魚の命の上に生きている。

抽選から漏れた人たちの代表で、イギリスにいる。

 

そう思っても、決してオーバーじゃないだろう。

 

手に持っていた瓶ビールの残りを一気に飲み干す。

自分のやりたいことを再確認して、わたしも頑張ると、今決めた。

 

後ろを振り返ると、広末さんが遠くでカメラを構えてるのが見えた。

 

 

 

 

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