たった千人の枠。1回で当選する人も
いれば何度も落ちる人もいる。頑張って
いる人もいれば、そうじゃない人もいる。
変な誤解から、先輩が殴られた時の話。
ヘアメイク、28歳、イギリス7ヶ月目
先輩が大変身を遂げたお祝いに、みんなでパブで飲んでいる時に、事件は起きた。
「ワーホリ先輩って、ワーホリビザで来たわけじゃないの?」
わたしは砂吹を問いつめる。
「いいかいミムラ。そもそも、イギリスにワーホリはない。YMSビザといってだな」
「知ってるよ、そんなこと」砂吹の言葉を遮る。
厳密に言うと、イギリスにおけるワーホリにあたるビザは「Youth Mobility Scheme」という名前だ。ワーホリよりも自由度が高いビザになる。期間も2年と、ワーホリの2倍だ。だがイギリスにいる人は、分かりやすいという理由から、ワーホリという言葉を今も使っている。
「ワーホリ先輩、2年間何もせずに部屋に引きこもってたって、言ったじゃない」
「聞き間違いはよくある、って言ったろ」砂吹はなぜかしたり顔だ。
「彼は岩堀先輩だ」
ィワーホリ先輩……いや、無理があるでしょ。悪意しかない。
「彼はイギリス人と日本人のハーフだよ。この2年間は引きこもって何もしてない。嘘はついてないだろ。だが、彼はすでに日本で会社を立ち上げて……」
そこまで砂吹が話したところで、ガタンと大きな音がした。椅子が倒れたのだ。驚いて音が鳴った方を見ると、先輩が見知らぬ男に胸ぐらを掴まれている。
「おまえみたいな奴がいるからな」目の虚ろな男が、先輩に向かって拳を振り上げているところだった。
「おまえみたいな奴がいるから、俺たちのチャンスが潰されるんだ」
次の瞬間、先輩は思いきり殴られてしまう。わたしたちは思わず身を固くする。
広末さんがすぐに止めに入り、男を羽交い締めにした。
「ごめんなさい! 彼ひどく酔っていて」彼の連れと思われる女性が飛んでくる。
「お前のビザを俺によこせ。何が引きこもりだ、ふざけやがって。俺の方が何倍も有効に使える。どいつもこいつも。旅行がしたいんなら観光ビザでいいだろうが。ふざけやがって」
呂律も怪しいし、主張も支離滅裂だった。完全に八つ当たりだけど、それでも、言いたいことはなんとなく分かった。
直後、憑き物が落ちたように冷静になり、呪文に似た謝罪のような言葉を述べたと思ったら、テーブルに突っ伏して寝てしまった。
一緒にいた女の子はひたすら謝っていた。先輩の頬は腫れ始めたが、驚きの方が上で、まだ痛みはないらしい。
連れの彼女によると、男は今年の春で、7回目の抽選に落ちてしまったらしい。彼には夢があるらしく、観光ビザを6ヶ月、その後は学生ビザで滞在して、今も頑張っているらしい。
イギリスのYMSは、毎年抽選で1000名と枠が決まっている。
その倍率は10倍、15倍とも噂されるため、中には行く気がなくとも一応といって応募する者も少なくない。
当選しても行かない人、行ってもすぐ帰る人、ただ旅行が目的な人。それらの人が、彼は気に入らないらしい。
逆恨みだ、と思った。
だけど気持ちは分からないでもない。
「いつもはこんな人じゃないんです。今日は飲み過ぎてしまったみたいで」
先輩は、氷の袋をもらって頬に当てている。
「せっかくイケメンになったのにね」三井は励まそうと思ってそう言ったのだろうが、彼はそれどころではない。
「先輩の名誉のために言っておくが」と砂吹は前置きをした。
「先輩は日本でネット販売の会社を立ち上げて、これが今、アホほど売れている。それで、社長の座を他に譲ってイギリスに来たんだ」
「会社って何を売ってるの?」
先輩は氷の袋を当てたまま、もごもごと話す。「アンティーク。最初は買い付けも兼ねて来たけど、気に入って住み着いちゃった」
「なんで嘘なんて付いたのよ」砂吹をにらむ。
「言いがかりはやめたまえ。おれはィワーホリ先輩と毎回言っていたし、2年などと聞いて勘違いしたのは君らだ」
「確信犯じゃない」
「その通りだ。実のところ、ワーホリで来ているだらしない男を見たら、君らがどんな態度を取るか、興味があった」砂吹は悪気もなく認めた。
「あなたもあなたよ。社長なら社長らしく、良い服着て、ちゃんとしなさいよ」
三井が指をさして、なぜか矛先が先輩に向いた。痛いところを突かれたのか、本当に頬が痛いのかは分からないが、まあとにかく痛そうだ。
「ほら、マークザッカーバーグも、毎日同じシャツを着るというだろ。服を選ぶところに頭を使うなら、他の決定に頭を使いたいんだよ、先輩も」砂吹が謎のフォローをする。
「家でYoutube見てただけじゃない」
言ってから、なんだか先輩の立場が不憫に思えてくる。
殴った男は最後まで起きることはなかった。
女の子は、万が一治療費が必要になったらと、連絡先のメモをくれた。
彼らはタクシーで帰ると言うので、わたしたちは先にパブを後にした。
わたしは飲みきれなかった瓶ビールを片手に、帰り道、あの男の境遇を想像した。
どんな夢があるのかは知らない。
でも、ビザの抽選に当たらないから、ありとあらゆる手を使って、
お金をかけて、時間をかけて、イギリスで頑張っているのだろう。
あんまり寝てないかもしれない。休みなんて、ないのかもしれない。
彼から見れば、遊びに来ているような私たちは、ぬるま湯に浸かっているように見えるのかもしれない。
日本でワーホリが悪く言われる時。
それは、確固たる目標がなく、だらだらとバイトと旅行を繰り返して、楽しかったで終わる人。
帰国してから後悔して、職がないと、途方に暮れる人がいるからだろう。
別に、旅行やバイトが悪いわけじゃない。
ただわたしは今日の出来事の中で、今何をすべきかをもっと意識しなくちゃ、と思った。毎日をもっと必死に生きようと思った。
食事の前に、なんのために「いただきます」と言っているのか忘れていたような、そんな気分だった。
マナーだからじゃない。命を頂いていることに対しての、感謝の言葉なのだ。
いただいた、お肉やお魚の命の上に生きている。
抽選から漏れた人たちの代表で、イギリスにいる。
そう思っても、決してオーバーじゃないだろう。
手に持っていた瓶ビールの残りを一気に飲み干す。
自分のやりたいことを再確認して、わたしも頑張ると、今決めた。
後ろを振り返ると、広末さんが遠くでカメラを構えてるのが見えた。
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