無人島から帰って来たようなワーホ
リ先輩。髪も髭も伸び放題の彼を、う
ちの映画クルーたちの手により変身さ
せる。ヘアメイクとカメラマンの底力。
作家志望、24歳、イギリス4ヶ月目
朝早くから、砂吹がダイニングで何やら準備をしていた。
大きな姿見が用意され、いつもトースターやケトルが置かれている場所には、ドライヤーやヘアアイロンがセットされている。
即席の美容室のように見える。
「誰か来るの?」
決まってんだろ、と忙しない返事が返ってくる。
「岩堀先輩だよ」
誰、とわたしは思う。
ミムラと広末くんも二階からおりてきたので、紅茶を淹れる。
砂吹が、これでもかと角砂糖を入れながら話し始める。
「人が美意識に目覚める時は、一体いつだと思う。引きこもりが外に出るのは、何がきっかけだと思う」
突然、何の話?
そう訊ねようと思った時に、ミムラも負けじと角砂糖を入れ出したから驚いた。飽和水溶液、という理科の用語を思い出す。紅茶に、そんなに砂糖が溶けるものなのか。
「人に変化がある時、たいてい周りは関係ない。彼らは周囲の言葉に耳を貸したり、本の名言に影響されたりしない」
「じゃあ、どうやって人は、変わるの」
ミムラさんの言葉に、砂吹は待ってましたとばかりに人差し指をたてた。
「飽きた時だ」
「引きこもりることに飽きた時、人は外に出る。だから周りは、いつまでそうしているのかと責めるよりも、黙って見守ってる方が得策だ。美意識も一緒だ。人に言われたところで、人間変わろうとは思わない。鏡をふと見た時に、自分はイケテナイと思って初めて、人は動き出す」
砂吹とミムラさんが、濃いクリーム色の紅茶を気付けの一杯のように一気に飲み干す。
「咳をしても一人、死ぬ時も一人。いくら周りが慰めようと関係ない。倒れた人間が起き上がる時は、結局一人だ」
その時にインターホンが鳴った。
ミムラがドアを開けに行く。入ってきたの一人の男性。
「諸君、かかれ!」
砂吹の号令に、その男性は挨拶をすることも許されず椅子に座らされた。クロスがかけられる。
ミムラがはさみを取り出し、相手の注文を聞くこともなく、髪をバッサバッサと切り始めた。
広末くんの話では、今日はこの男の人を変身させる企画らしい。
ミムラがカットとヘアスタイリングをし、砂吹が衣裳を選ぶ。
そして、広末くんのカメラで撮影する、という流れらしい。
わたしだけ何もできずに仲間はずれじゃないかと思いながら、カットする度に響くハサミの子気味良い金属音に、耳を傾ける。
小一時間でカットが終わった。
おおと、自然と声を上げる。
髪型って、大事なのだなと思う。
結構、いや、かなり変わるものだ。
次は衣裳だ、と砂吹が言い、わたしたちはブリックレーンにやってきた。
古着を買うつもりなのだろうか。
砂吹は、手際よくインナーとアウター、パンツを手にし、値段も訊かずに買っている。
「おい、こけし娘。メガネが必要だ。探してこい」
こけし娘、とはわたしのことだ。黒く重めの前髪をバカにして砂吹はそう呼ぶ。
わたしも、ミムラさんに切ってもらおうかな。
砂吹と会った当初は、奴隷に命ずるかのような口調が気に食わなかった。しかし今は、暇そうなわたしに仕事をくれたのだと思う。
メガネを探しに行く。
すべての衣裳を着せてみたところで、彼を囲むように見る。
いいじゃないか、かっこいいよ、とみんなが声を上げる。
仕上げに、広末くんが撮影をした。
ほんの10分ほどで撮った彼の写真を見ようと、皆がカメラのモニターに顔を寄せる。
本人は、不思議そうな顔で写真を見つめていた。
さすがに、自分でかっこいいとまでは言わなかったが
まんざらでもなさそうであることはたしかだ。
「岩堀くん!とてもかっこいいじゃないか!メガネのCMいけるぞ」
たしかに、先程とは別人のようだ。
砂吹の言葉に、「誰、岩堀くんて。ワーホリ先輩じゃなかったの」とミムラさんが訊ねる。
砂吹はそれには答えようとしない。
「今日のカットや衣裳代はもちろん無料だ。もし、この髪型が気に入ったら、またミムラが髪を切ってくれる。その時は£10握りしめてやってこい」
すると砂吹は私達の方を振り返り、声をひそめてこんなことを言った。
「ミムラによると、この髪型が完全に崩れるのは1ヶ月半後。彼は、£10握りしめて現れると思うか?」
そこまでが検証だ、と言った。
「あれだけ自分に興味のなかった彼に今日、美意識が芽生えていれば、彼はきっとやってくる」
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